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「数運」と王仁三郎
「数運(すううん)」というのは数字にまつわる運命・めぐり、というような意味です。
出口王仁三郎の周りには色々な数運が取り巻いていますが、最も有名なものが次の出来事です。
大本の中で起きた事件に相応する事件が、ちょうど6年後の同じ日に、大本の外に波及して起きています。
大本神業が世界の雛形として機能していることが、符号の一致(数字の一致)という現象によって示されているのです。
また王仁三郎は昭和10年(1935)12月8日に投獄されてから昭和17年(1942)8月7日に保釈出獄するまでのおよそ6年8ヶ月、日数にすると2435日間、獄中にいて自由を奪われていました。
一方、戦争に負けた連合軍に占領された日本は、昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復しましたが、この自由を奪われていた占領期間は、米軍の先遣隊が厚木飛行場に着陸した昭和20年(1945)8月28日から、講和条約発効前日の4月27日までの2435日間で、ここにも数運が現れています。
これらの数運は「こじつけ」だとか「単なる偶然」だとか感じる人もいることでしょう。では次の数運はどうでしょうか。
明治4年(1971)7月12日(旧暦)に生まれた王仁三郎は、昭和3年(1928)3月3日(旧2月12日)に56才7ヶ月を迎えました(旧暦で数えて下さい)。
王仁三郎は神業上、瑞の身魂(みづのみたま)・変性女子という役割をしており、また、釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するという仏説に因んで、王仁三郎は「五六七」と書いて「みろく」と読ませています。
弥勒(マイトレーヤ、救世主)の神業を行う王仁三郎が、女の子の節句である雛祭りの日に、しかも瑞(みづ、三つ)に因む3が3回並ぶ日に、ミロク(567)に因む56才7ヶ月を迎えたというのは、実に不思議です。
このようなことは人為的・作為的に出来ることではありません。明治天皇と大正天皇の崩御による改元と、明治5年12月3日のグレゴリオ暦への改暦(この日を6年1月1日として改暦された)がなくては、333の日に567になることは不可能です。つまり帝国政府がグルにならなくては出来ないのです(その帝国政府が王仁三郎を弾圧したのです)。
このような時間的な数運の他に、地理的な数運もあります。
大本は二つの聖地──京都府綾部市の「梅松苑(ばいしょうえん)」と亀岡市の「天恩郷(てんおんきょう)」──を持ちますが、亀岡の天恩郷(明智光秀の居城の亀山城趾)は北緯35度00分・東経135度35分の地点にあります。
35というのは大本では特別な意味を持つ数字で、3は瑞霊(ずいれい)、5は厳霊(げんれい)を現します。
厳(いづ)と瑞(みづ)とは大宇宙をつくる二つの大きな霊流で、35(三五)と書いて「あなない」と読み、王仁三郎が書いた霊界物語は「三五教(あなないきょう)」の宣伝使の活躍を描いた物語になっています。
緯度は赤道を0度、経度はロンドンのグリニッジ天文台を0度として地球上に線を引いており、王仁三郎の生地・亀岡を北緯35度00分、東経135度35分にすることは、王仁三郎の個人的な努力では実現不可能な現象です。
このように、数運というのは一種の超常現象ですが、霊能力で物を動かしたとか病気が癒ったとかいう現象とは全く性質が異なり、大自然や人間社会全体が共謀しないと実現できない現象です。偶然の一致にしては、あまりにもうまく出来すぎています。
ですから学者・評論家が書いた王仁三郎・大本を扱った本では、この数運については無視されています。物が動いた・病気が癒ったという類ならトリックとかインチキとか言えますが、数運については科学的・合理的な説明が不可能だからでしょう。
さらに不思議なのは、王仁三郎に数運が付きまとうということが、大本以外の宗教で下りた神示によっても示されていることです。
大正10年(1921)頃に中国で誕生した「道院(どういん)」という宗教があります。「紅卍字会(こうまんじかい)」という外郭団体で慈善活動を行っています。
大正12年、関東大震災の救援活動で日本にやって来たときに、大本と関係が出来て、提携を結びました。
道院は扶乩(フーチ)と呼ばれる方法で「壇訓」と呼ばれる神示を受け取ります。
事前に「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」という壇訓が下りており、それが大本だったのです。
王仁三郎も「道院は中国の大本である」と言うくらい、神界的関係のとても深い宗教でした。
道院の信者になると「道名」という宗教名をもらいます。扶乩(フーチ)によって神様から与えられるのです。
王仁三郎も道院の信者として「尋仁」という道名を持っていました。読み方を変えると「ヒロヒト」になるのが意味深です。
第二次大本事件で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日に、中国の瀋陽道院で次のような壇訓が下りました。
天運とは、大自然=神の経綸ということです。
人類のカルマを背負い、救世の神業を行う王仁三郎に、神意に合している証として数運が現れる…という神示が、大本とは別の宗教団体で、日本以外の地で降りているのです。
そのこと自体が、王仁三郎の活動が、単に大本という宗教団体・人間集団の中での狭い活動なのではなく、宇宙意志・大自然(神)と一体となった空前絶後の大神業であった証拠であると言えるでしょう。
出口王仁三郎の周りには色々な数運が取り巻いていますが、最も有名なものが次の出来事です。
昭和9年(1934)7月22日 | 東京の軍人会館(現・九段会館)で昭和神聖会が発足。王仁三郎を統管とする愛国団体で、政財界を始め多数の賛同者を集める。 |
---|---|
昭和15年(1940)7月22日 | 第二次近衛内閣が組閣され、その下で日独伊の三国同盟締結(9月)、大政翼賛会が結成(10月)され、戦争への道を進んで行く。 |
昭和10年(1935)12月8日 | 第二次大本事件勃発。 |
昭和16年(1941)12月8日 | 太平洋戦争勃発。 |
昭和11年(1936)4月18日 | 綾部・亀岡の両聖地が当局により強制売却される。やがて全国の大本の施設が徹底的に破壊されて行く。 |
昭和17年(1942)4月18日 | 米軍機16機が本土を初空襲。やがて日本全土が空襲により破壊されて行く。 |
昭和20年(1945)9月8日 | 大審院(現在の最高裁)判決が出て第二次大本事件が終結。 |
昭和26年(1951)9月8日 | サンフランシスコ講和条約が締結され、太平洋戦争が終結する。 |
大本の中で起きた事件に相応する事件が、ちょうど6年後の同じ日に、大本の外に波及して起きています。
大本神業が世界の雛形として機能していることが、符号の一致(数字の一致)という現象によって示されているのです。
また王仁三郎は昭和10年(1935)12月8日に投獄されてから昭和17年(1942)8月7日に保釈出獄するまでのおよそ6年8ヶ月、日数にすると2435日間、獄中にいて自由を奪われていました。
一方、戦争に負けた連合軍に占領された日本は、昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復しましたが、この自由を奪われていた占領期間は、米軍の先遣隊が厚木飛行場に着陸した昭和20年(1945)8月28日から、講和条約発効前日の4月27日までの2435日間で、ここにも数運が現れています。
これらの数運は「こじつけ」だとか「単なる偶然」だとか感じる人もいることでしょう。では次の数運はどうでしょうか。
明治4年(1971)7月12日(旧暦)に生まれた王仁三郎は、昭和3年(1928)3月3日(旧2月12日)に56才7ヶ月を迎えました(旧暦で数えて下さい)。
王仁三郎は神業上、瑞の身魂(みづのみたま)・変性女子という役割をしており、また、釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が出現するという仏説に因んで、王仁三郎は「五六七」と書いて「みろく」と読ませています。
弥勒(マイトレーヤ、救世主)の神業を行う王仁三郎が、女の子の節句である雛祭りの日に、しかも瑞(みづ、三つ)に因む3が3回並ぶ日に、ミロク(567)に因む56才7ヶ月を迎えたというのは、実に不思議です。
このようなことは人為的・作為的に出来ることではありません。明治天皇と大正天皇の崩御による改元と、明治5年12月3日のグレゴリオ暦への改暦(この日を6年1月1日として改暦された)がなくては、333の日に567になることは不可能です。つまり帝国政府がグルにならなくては出来ないのです(その帝国政府が王仁三郎を弾圧したのです)。
もちろんその日に生まれた人は全員56才7ヶ月を迎えたわけですが、「五六七」と書いて「みろく」と読ませるようにしたのは王仁三郎ですし、弥勒の神業を行っているから意味を持つのです。それ以外の人がその日に56才7ヶ月になったからと言って特別な意味を持つわけではありません。たとえば昭和9年(1934)7月28日(旧6月17日)に生まれた人は平成3年(1991)3月3日(旧1月17日)に56才7ヶ月を迎えましたが、弥勒に関する活動をしているのでなければ、何ら意味を持つことはありません。
このような時間的な数運の他に、地理的な数運もあります。
大本は二つの聖地──京都府綾部市の「梅松苑(ばいしょうえん)」と亀岡市の「天恩郷(てんおんきょう)」──を持ちますが、亀岡の天恩郷(明智光秀の居城の亀山城趾)は北緯35度00分・東経135度35分の地点にあります。
35というのは大本では特別な意味を持つ数字で、3は瑞霊(ずいれい)、5は厳霊(げんれい)を現します。
厳(いづ)と瑞(みづ)とは大宇宙をつくる二つの大きな霊流で、35(三五)と書いて「あなない」と読み、王仁三郎が書いた霊界物語は「三五教(あなないきょう)」の宣伝使の活躍を描いた物語になっています。
緯度は赤道を0度、経度はロンドンのグリニッジ天文台を0度として地球上に線を引いており、王仁三郎の生地・亀岡を北緯35度00分、東経135度35分にすることは、王仁三郎の個人的な努力では実現不可能な現象です。
Google Earthで分以下を調べてみると、天恩郷の東側にある門のあたりは北緯35度00分44秒・東経135度35分01秒になります。月宮宝座(昔、月宮殿が建っていた、天恩郷の至聖所)の辺りは00分49秒・34分52秒になり、ちょっとズレます。厳密に00分00秒・35分00秒の地点は、天恩郷から1.4キロほど南の、上矢田の矢田天満宮の近く(Googleマップ)になります。
このように、数運というのは一種の超常現象ですが、霊能力で物を動かしたとか病気が癒ったとかいう現象とは全く性質が異なり、大自然や人間社会全体が共謀しないと実現できない現象です。偶然の一致にしては、あまりにもうまく出来すぎています。
ですから学者・評論家が書いた王仁三郎・大本を扱った本では、この数運については無視されています。物が動いた・病気が癒ったという類ならトリックとかインチキとか言えますが、数運については科学的・合理的な説明が不可能だからでしょう。
さらに不思議なのは、王仁三郎に数運が付きまとうということが、大本以外の宗教で下りた神示によっても示されていることです。
大正10年(1921)頃に中国で誕生した「道院(どういん)」という宗教があります。「紅卍字会(こうまんじかい)」という外郭団体で慈善活動を行っています。
大正12年、関東大震災の救援活動で日本にやって来たときに、大本と関係が出来て、提携を結びました。
道院は扶乩(フーチ)と呼ばれる方法で「壇訓」と呼ばれる神示を受け取ります。
事前に「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」という壇訓が下りており、それが大本だったのです。
王仁三郎も「道院は中国の大本である」と言うくらい、神界的関係のとても深い宗教でした。
道院の信者になると「道名」という宗教名をもらいます。扶乩(フーチ)によって神様から与えられるのです。
王仁三郎も道院の信者として「尋仁」という道名を持っていました。読み方を変えると「ヒロヒト」になるのが意味深です。
第二次大本事件で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日に、中国の瀋陽道院で次のような壇訓が下りました。
「数運は天運と相 合 す。尋仁 は化世 の大責 を負う者、必ず数運と天運の輪転に循 い、以 て世間諸劫 の障 を受 く也。」
天運とは、大自然=神の経綸ということです。
人類のカルマを背負い、救世の神業を行う王仁三郎に、神意に合している証として数運が現れる…という神示が、大本とは別の宗教団体で、日本以外の地で降りているのです。
そのこと自体が、王仁三郎の活動が、単に大本という宗教団体・人間集団の中での狭い活動なのではなく、宇宙意志・大自然(神)と一体となった空前絶後の大神業であった証拠であると言えるでしょう。
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