思想というものは先人の思想の影響を受けて練られて行くものであり、全く新しい思想が誕生するということはあまりない。
出口王仁三郎の思想にも何人もの先生がおり、時には先生が言っていることをそのまま流用している場合もある。

18世紀ヨーロッパの神秘主義者エマヌエル・スエデンボルグ(1688~1772年)も先生の一人である。
王仁三郎の霊界観はスエデンボルグの影響を大きく受けている。

霊界物語第47~48巻には天界の様子が詳しく記されているが、そこにはスエデンボルグの著作からそのまま転載したかのような文章があちこちに散見される。

禅を海外に紹介したことで知られる仏教者・鈴木大拙(1870~1966年)が、スエデンボルグの著書『天界と地獄』を翻訳して明治43年(1910年)に刊行しているのだが、その文章を使用したようだ。

この「盗用疑惑」は第二次大本事件の裁判の時に問題となっており、裁判長に追求された王仁三郎は、「神様の意思に合っているので使った、本を見ながら口述したのではなく、口から勝手に出て来るのだ」という意味のことを答えている。(『大本史料集成』収録の「地裁公判速記録」を参照。スエデンボルグは「セーデンボルグ」と表記されてある)

その一部を調べたが、思いのほかがっちりと流用されていた。中には一字一句違わないような部分もある。現代だったら確実に「盗作」としてネット民に叩かれるようなレベルである。

王仁三郎のことなので、これほど流用していることには何か意味があるのかも知れない。スエデンボルグの他の本も調べて勉強せよ、ということだろうか?



調べた箇所を下に比較対照して掲載する。
検証箇所は霊界物語第47巻第17章「天人歓迎」の、天人の衣類に関する記述である。

使用した『天界と地獄』は、『鈴木大拙全集 第23巻』(岩波書店)所収のもの(p245~247)で、霊界物語は「霊界物語ネット」掲載のもの(愛善世界社版が底本)である。
文章を比較しやすいように、いくつかのブロックに区切った。
『天界と地獄』は漢字が旧字体だがこれを新字体に改めた。ルビは青空文庫形式で付けた。
天界と地獄霊界物語
天人が著用の衣類は、又其外の事物の如く、相応せり、而して是の相応の故に、彼等の存在は亦如実也。而して天人の衣類は其智慧と相応するが故に、天界にあるものは皆其智慧の如何に従ひて衣服を著用せり。或る一部の天人はその智慧他に優れるが故に、其の著用せる衣類も亦他に優れて一際美はし。その智慧最も秀でたるものの衣類に至りては、火焔の如く輝き、又或は光明をもてる如く照りわたれり。 |抑《そもそ》も天人の衣類は其智慧と相応するが故に、天国にある者は皆其智慧の度の如何に依つてそれぞれの衣服を着用してゐるものである。其中でも、智慧の最も秀れた者の衣類は、他の天人の衣服に比べてきわ立つて美しう見えて居る。又特に秀でた者の衣類は恰も火焔の如く輝き渡り、或は光明の如く|四方《あたり》に照り亘つてゐる。
その智慧此の如くならざるものは、其衣類、輝きて白けれども、赫赫の光あることなし。其智慧更に之に次ぐものは其衣類の色様々にして一ならず。されど最奥の天界にある天人に至りては、衣類を用ひることなしとす。 其智慧の|稍《やや》劣つた者の衣服は、輝きはあつて真白に見えて居るけれども、どこともなくおぼろげに見えて、|赫々《かくかく》たる光がない。又其智慧の之に次ぐ者は、それ相応の衣類を着用し、其色も亦さまざまであつて、決して一様ではない。併しながら最高最奥の天国霊国にある天人は、決して衣類などを用ひる事はない。
天人の衣類は其智慧と相応するが故に、又真と相応せり、そは一切の智慧は神真より来ればなり。故に天人の衣類は智慧の如何に由ると云ふも、神真の如何によると云ふも、畢竟同じことなり。 天人の衣類は其智慧と相応するが故に又|真《しん》とも相応するのである。何故ならば、一切の智慧なるものは、|神真《しんしん》より来るからである。故に天人の衣類は智慧の如何によるといふよりも、神真の程度の如何に依るといふのが穏当かも知れない。
其衣類の、或は火焔の如く輝くあり、或は光明の照らすが如きあるは、火焔は善と相応し、光明は善よりする真と相応すればなり。 而して火焔の如く輝く色は、愛の善と相応し、其光明は善より|来《きた》る|真《しん》に相応してゐるのである。
其衣類の、或は輝きて且つ白きも光輝を欠けるあり、或は其色種種にして一様ならざるあるは、神善及び神真の光、此に輝くこと少なくして、智慧尚ほ足らざる天人の之を摂受すること種種にして一様ならざれはなり。輝きて白きは真に相応し、色の様々なるは真の一様ならざる所に相応す。 其衣類の或は輝きて|且《かつ》純白なるも、光輝を欠いでゐるのもあり、其色又いろいろにして一様ならざるあるは、|神善《しんぜん》及|神真《しんしん》の光、之に輝く事少くして、智慧尚足らざる天人の之を|摂受《せつじゆ》する事、種々雑多にして、一様ならざる所に相応するからである。
最奥の天界にある天人の衣類を用ひざるは、彼等の無垢なるに由るものにして、無垢は赤裸裸に相応せり。 又最高最奥の天国霊国に在る天人が衣類を用ひないのは、其|霊身《れいしん》の清浄無垢なるに依るものである。清浄無垢といふ事は即ち|赤裸々《せきらら》に相応するが故である。
又彼等は多くの衣類を有して、或は之をぬぎ、或は之を著け、其不用なるものは、之を蓄へおき、用ある時に至りて、復た之を着るを見て明かなり。天人が著用する衣類に様々あることは、わが千たびも見たる所にて、その何処より之を獲たるかと問へるとき、天人答へて曰ふ、こは主より来る、即ちわれらは之を主の賜として受領す、又時には自ら知らずして衣を着せらるることあり、と。 而して天人は多くの衣類を所有して、或は之を脱ぎ、或は之を着け、不用なるものは|暫《しばら》く之を貯へおき、其用ある時に至つて又之を着用する。そして此衣類は皆大神様の賜ふ所である。
天人又日ふ、その衣類には変化ありて第一及び第二の情態にをるときは、光り輝きて白く、第三と第四とには稍々曇れり、而してこは亦相応より来る所にして、即ち上に見たる如く、智慧及び証覚の如何によりて天人の情態に変化あればなり。 其衣類にはいろいろの変化があつて、第一及第二の情態に居る時には、光り輝いて白く清く、第三と第四との情態に居る時には、稍曇つた様にみえてをる。これは相応の理より起来するものであつて、智慧及証覚の如何によつて、斯く天人の情態に、それぞれ変化がある故である。序に地獄界にある者の、衣類のことを述べておく。
霊界にあるものは、すべてその智慧の如何によりて衣類を著用するが故に、従ひて智慧が由りて来る所の真理如何によりて衣類を著用するが故に、地獄界に在るものも亦一種の衣類を著用せり、されど彼等は真理の外にあるを以て、彼等が著用せる衣類は、その癲狂の度によりて、破れ綻ぶること甚しく、その汚穢なる面をむくべからず。彼等は実に此以外の衣類を著くるを得ざるなり。主が彼等に衣類を著くるを許し給ふは、其赤裸裸なるを曝さざらしめんためなりとす。 根底の国に陥つてゐる者も亦一種の衣類の着用を許されて居る、されど彼等の悪霊は、総ての真理の|外《ほか》に脱出せるを以て、|着《ちやく》する所の衣服は其|癲狂《てんきやう》の度と虚偽の度とによつて、或は破れ、或は|綻《ほころ》び、ボロつぎの如く見苦しく、又其|汚穢《をわい》なる事は到底|面《おもて》を向くるに堪へない位である。併し彼等は実にこれ以外の衣類を着用する事が出来ないのである。又地獄界にゐる悪霊は|美《うる》はしき光沢の衣類を着用する時は、相応の理に反するが故に、|身体《しんたい》苦しく、頭痛み、体をしめつけられる如くで、到底着用することが出来ないのである。故に大神が彼等の|霊《みたま》相応の衣類を着用することを許し給うたのは、其|悪相《あくさう》と虚偽と|汚穢《をわい》とが|赤裸々《せきらら》に暴露する事を防がしめむが為の|御仁慈《ごじんじ》である。
(この文章は旧サイト「出口王仁三郎資料センター」に 2005/1/10 に掲載された文章を加筆訂正したものです)