予言と霊能力

日米戦の予言

 王仁三郎の名前を一躍有名にしたのは未来予言である。
 特に日米間の戦争で起きるという予言が的中したことは、あの朝日新聞も脱帽して(大戦後のことだが)報道したほどだ。
 「火の雨が降る」──これは米軍のB29爆撃機が投下して日本全国を焦土と化した焼夷弾のことだろう。焼夷弾は高空で投下されると燃えながら落ちてくる。それが文字通り「火の雨」に見えるのだ。果たして明治時代に日本に「火の雨」が降るなんて想像した人がどれほどいただろうか?

 「火の雨が降る」というのは、もともと出口ナオ(直)の筆先に現われた予言である。
 出口ナオは明治25年(1892年)旧正月に「艮の金神」(うしとらのこんじん)という神が懸かり、「三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世になりたぞよ」という雄健びを叫びだした。これが「大本」(おおもと)が開教したきっかけである。場所は京都府の北の方「綾部」(あやべ)という町だ。肌着メーカーのグンゼが発祥した地として知られている。
 ナオは半紙に筆で、艮の金神のメッセージ(神示)を自動書記で書き続け、大正7年(1918年)に昇天するまでの間に何と10万枚も書いた。それを「筆先」と呼ぶ。
【左】大本開祖・出口直(ナオ) 【中】艮の金神が直に書かせた筆先 【右】大本神諭で「火の雨」が降ることが予言されていた
 筆先は、基本的に平仮名と漢数字で書かれているため、色々な意味の解釈ができてしまう。そのため解釈する権限は王仁三郎にのみ与えられた。

 王仁三郎はナオの娘ムコだ。元は「上田喜三郎」(うえだ・きさぶろう)という名で、京都市のすぐ西に隣接する「亀岡」という町で生まれ育った。
 喜三郎は明治31年(1898年)に自宅に突然現われた仙人によって、高熊山という霊山に連れて行かれ、一週間の霊的修業をすることになる。そこで、世界を救うという自分の使命に目覚めて活動を開始した。このような神様に関する活動のことを「神業」(しんぎょう)と呼ぶ。
【左】綾部と亀岡の位置 【中】高熊山の岩窟で正座して修業した 【右】高熊山(中央の岩窟に小さく王仁三郎が見える) どちらも昭和10年に自伝映画を撮影したときの写真
 喜三郎とナオはそれまで互いに見ず知らずの他人だったのだが、神示に導かれて運命的な出会いを果たす。そして王仁三郎は翌年、綾部に移住。さらに翌年(33年)ナオの末娘の澄子と結婚し、その後「出口王仁三郎」と改名した。
 大本の発端を開いたのはナオだが、教えを体系化し、信者を組織化して教団を創って行ったのは王仁三郎である。そのようなことで、ナオと王仁三郎は「二大教祖」とされている。ただし教主は代々女子が継ぐことが神示によって定められており、ナオの昇天後は澄子が二代教主に就いた。王仁三郎は肩書きとしては「教主輔」、尊称としては「聖師」と呼ばれている。

 王仁三郎は筆先を解釈して漢字をあてはめ、誰でも読めるようにして発表した。それを「大本神諭」(おおもとしんゆ)と呼ぶ。筆先はナオの手を使って艮の金神(国祖・国常立尊)が書いたものだが、凡人が読んでも意味が全くわからない。王仁三郎の霊能力があってこそ、正しく読み解けたのである。そういう意味では、大本神諭は事実上、王仁三郎が書いたものだと言ってもよい。
 大本神諭が発表されると世間に大きな衝撃を与えた。それは「この世の立替え立直しが間もなく起きる」という、世界の終末を告げる予言だったからだ。
【左】若い頃の王仁三郎(明治34年、30歳) 【中】王仁三郎と澄子の結婚式(明治33年元日) 【右】澄子と娘(明治39年、23歳。右は長女・直日、左は二女・梅野)
 当時の大本は大正10年(1921年)にこの世の大峠(終末)が起きるという「大正十年立替説」を大々的に宣伝して信者やシンパを集めて行った。初期の大本は終末予言の宗教だったのだ。

 王仁三郎の手になる予言には、たとえば「大本神歌」や「いろは歌」がある。

……東雲(しののめ)の空に輝く天津日(あまつひ)の、豊栄(とよさか)昇る神の国、四方(よも)にめぐらす和田の原、外国軍(とつくにいくさ)の攻め難き、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足(ちたる)の国と称えしは、昔の夢となりにけり。今の世界の国々は、御国(みくに)に勝りて軍器(つわもの)を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備え足らわし間配(まくば)りつ、やがては降らす雨利加(あめりか)の、数より多き迦具槌(かぐつち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬(うきせ)を渡る国民(くにたみ)の、行く末深く憐みて……
〔大本神歌 大正6年12月1日 『神霊界』大正7年2月1日号〕

 「迦具槌」(迦具土)というのは日本神話に登場する火の神である。つまりアメリカが爆弾を投下するという意味に受け取れる。

……おちこちの寺の金仏(かなぶつ)、金道具(かな)、釣鐘(つりがね)までも鋳潰(いつぶ)して、御国(みくに)を守る海陸(うみくが)の、軍(いくさ)の備えに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理(たぐり)になります金山(かなやま)の、彦の命(みこと)の御代(みよ)となり、下国民(しもくにたみ)の持ち物も、金気(かなけ)の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代えでも足らぬまで、迫り来るこそ歎(うた)てけれ。
くに挙(こぞ)り、上は五十路の老人(おひと)より、下は三五(さんご)の若者が、男女(おとこおみな)の別ちなく、坊主も耶蘇も囚人(めしうど)も、戦争(いくさ)の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず……
〔いろは神歌 大正6年11月3日 『神霊界』大正6年12月1日号〕

 これは第二次大戦中に行われた金属の供出(実際にお寺の釣鐘なども兵器を造るため鋳つぶされた)や、徴兵や徴用で老若男女問わず総動員された大戦末期(男子の9割以上が徴兵された)の予言であろう。

 そのほか、王仁三郎の予言には枚挙にいとまがない。
王仁三郎の予言は機関誌『神霊界』で発表された【左】大本神歌 【右】いろは歌

森羅万象を操る霊能力

 予言(予知)も霊能の一種だが、霊視・透視や念力(テレキネシス)も王仁三郎はお得意だった。
 作家で僧侶の今東光(こん・とうこう、1898-1977。参議院議員も務めた)は、親友の作家・佐々木味津三(1896-1934、『旗本退屈男』の著者)が王仁三郎に面会したときの霊視のエピソードについて語っている。

 佐々木が王仁三郎に挨拶をすると王仁三郎は佐々木の肩の辺りに向かって「ふっ、ふっ、ふっ」と息を吹きかけて何かを追っ払うような格好をした。すると王仁三郎は「あんたの方に古狐が乗っているので追っ払ってあげたのさ。そんな古狐を背負っていると苦労が絶えませんのでな」と言った。その言葉は佐々木の胸にズンとこたえた。ちょうど兄が死んで借金を背負い、その遺族も佐々木が引き取って世話をしていた。その上、若い時に世話になった下宿先の一家も引き取って世話をしていたので、何ほど稼いでも追いつくものではなかった。苦労の絶頂にいた佐々木の境遇を王仁三郎はズバリと見抜いたのだった。
 またその後、佐々木は、王仁三郎の霊能力を疑って鼻であしらっている知り合いの新聞記者を連れて行き、王仁三郎に会わせた。すると王仁三郎はその新聞記者に、財布の中に小銭も含めていくら入っているか尋ねた。小銭などいちいち数えないから覚えているはずがない。王仁三郎は「十円札一枚、五円札一枚、一円札三枚、バラ銭を入れて十八円三十八銭だ。さあ、見てみたまえ」と言う。言われた記者は財布の中味を王仁三郎の前で開けて勘定してみると、ピッタリと十八円三十八銭あった。疑い深い彼もさすがにぐうの音も出なかったという。(以上、出口京太郎『巨人出口王仁三郎』より)

 王仁三郎は高熊山修業の直後から、「鎮魂帰神術」(ちんこんきしんじゅつ)という、神懸かりの修法を盛んにやって信者を集めた。これは神人感合の法であり、一種の霊能開発法でもある。修行者に神霊を懸からせて、審神者(さにわ)と呼ばれる神主がその神霊の正体を見極める。たいてい懸かるのはしょうもない下級霊だが、修行者の霊性が研かれて清まるほど高級霊が懸かるという道理だ。大正時代までに入信した古老の信者の中には、実際にこの神懸かりを目撃した人も少なくない。神懸った修行者が神殿の天井まで飛び上がっていたという。

 また王仁三郎は「言霊」(ことたま)を自由自在に扱うことができた。宇宙は七十五声の言霊によって成りたっている。つまり宇宙の根本元素にアクセスすることで森羅万象を操ることができるのだ。
 信者で言霊隊を編成し、綾部や大台ヶ原、伊吹山などに行かせて、言霊発射の実習をやらせた。
 モンゴルに行ったとき(後述)には、晴れた大地に暴風雨を降らせて現地人を驚かせ、その雨をパタリとやませて快晴にさせて二度驚かせた。(入蒙記第25章参照
【左】鎮魂の印を組む王仁三郎 【中・右】王仁三郎の言霊学の師匠の一人である大石凝眞素美と、七十五声の言霊の神秘が隠された「真素美の鏡」(『大石凝眞素美全集』(八幡書店・復刻版)より)
【左】大正8年に綾部の神苑に建てられた「言霊閣」は言霊の神威を発揚する神聖な建物で、最上階で王仁三郎は神器「天津神算木」(あまつかなぎ)を運用した 【右】言霊学の講義をする王仁三郎(昭和8年、亀岡・大祥殿にて)
 このように予言や霊能を大きく前面に出して、王仁三郎は大本の勢力を広げていったのだが、大正10年(1921年)に治安当局により弾圧を受けると(第一次大本事件)、その後は方針を変え、それらはあまり大きく扱わないようになった。
 それは、予言や霊能というオカルティックなものをアピールしていると、そういうことに興味を持つ人が多く集まってくるからだ。他人には使えない超能力が使えるようになったり、他人には見えない未来を解読することで、他人よりも優越感を感じたり、自分は特殊な選ばれた人間なんだと思いたいとか、そういう「慢心取り違え」した集団になる危険性がある。特に帰神術は一切禁止してしまった。悪霊に取り憑かれる危険も高いからだ。
 当時の大本には、予言や霊能に嵌まってしまい、仕事や学業を放棄して綾部に移住し、集団生活を営む信者もたくさんいた。そこが終末の時でも安全な場所とされたからだ。
 しかしそのような態度は、神に選ばれた自分たちだけが助かればいいという「われよし」「つよいものがち」の態度につながりかねない。現代にもそういうカルト教団が時々出現して社会問題となっている。
 王仁三郎は弾圧の後は、カルト化していた集団を、グローバルに開かれた人類愛善の集団へと次元上昇させて行った。
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