(年齢は原則として満年齢)
天保7年12月16日(1837年1月22日) 出口直(なお)、福知山で生まれる。 明治4年7月12日(1871年8月27日) 上田喜三郎(後の出口王仁三郎)、亀岡の農家で生まれる。実父は有栖川宮熾仁親王で、真の生年月日は明治3年7月12日だが、その事実は隠して育てられる。 明治16年(1883) 喜三郎は小学校の代用教員となる(12歳) |
明治25年(1892)2月3日(旧正月5日) 綾部で出口直(55歳)に「艮の金神」(うしとらのこんじん)が懸かる。大本開教。 明治26年(1893) 喜三郎は園部で獣医師の助手となる(22歳) 国学者の岡田惟平(これひら)に師事 明治29年(1896) 亀岡で牧場兼牛乳販売業の「穴太精乳館」を開業(25歳) 明治31年(1898)3月1日(旧2月9日) 松岡芙蓉仙人に導かれ高熊山で一週間の霊的修行を行う(26歳)自分の救世の使命を覚る 同 10月 綾部で出口直(61歳)と会う 明治32年(1899)7月 綾部に移住(28歳) 同 8月 金明会(綾部)と霊学会(亀岡)を合体し「金明霊学会」を設立 明治33年(1900)1月 出口直の末娘である澄子(16歳)と結婚 同 7月4日 日本海の舞鶴沖で「冠島開き」(おしまびらき)の神業 同 8月2日 同じく「沓島開き」(めしまびらき)の神業 同 10月1日 京都の鞍馬寺で「鞍馬山詣り」の神業 明治34年(1901)4月26日 福知山の元伊勢皇大神社で「元伊勢お水の御用」の神業 同 7月12日 出雲大社で「出雲火の御用」の神業 同 10月19日(旧9月8日) 出口直は綾部の弥仙山に一週間籠もり「岩戸籠もり」の神業 明治39年(1906)9月 京都の「皇典講究所」で学ぶ(翌年4月卒業) 明治40年(1907)5月 京都の「建勲神社」に奉職(12月に辞職) 明治41年(1908)8月 「金明霊学会」を「大日本修斎会」に改組する 明治43年(1910)12月 戸籍上「出口王仁三郎」と改名 大正2年(1913)7月12日 教団名を「大本教」(たいほんきょう)と改称 大正5年(1916)4月22日 教団名を「皇道大本」と改称 同 6月25日 瀬戸内海の高砂沖で「神島開き」の神業 同 10月5日(旧9月9日) 神島に参拝。出口直の「見真実」(けんしんじつ) 大正7年(1918)11月6日 大本開祖・出口直(81歳)昇天(王仁三郎、47歳) 大正10年(1921)2月12日 第一次大本事件で入獄(49歳)(起訴されるが昭和2年に大正天皇崩御による大赦令で免訴) 同 6月17日 出獄する(獄中生活は126日間) 同 10月14日 教団名を「大本」と改称 同 10月18日(旧9月18日) 綾部で『霊界物語』の著述を開始(50歳) 同 7月 バハイ教との交流が始まる。また大正12年以降、中国の「道院・紅卍字会」や朝鮮の「普天教」、ドイツ「白旗団」、ブルガリア「白色連盟」、チベット「ラマ教」、ベトナム「カオダイ教」などの諸宗教と提携を結んで行く。 大正12年(1923) 国際補助語エスペラント語の普及運動を始める。 大正13年(1924)2月13日 早朝に綾部を発ちモンゴルへ向かう(53歳) 同 6月21日 パインタラ(現・中国内モンゴル自治区通遼市)で現地の軍隊に捕まり、銃殺寸前で助かる 同 7月25日 帰国して門司港に上陸。27日に投獄され、98日後の11月1日に出獄して綾部に帰る 大正14年(1925)1月 宣教のため「神教伝達使」を任命(5月に「宣伝使」と改称) 同 5月20日 北京で「世界宗教連合会」を設立 同 6月9日 「人類愛善会」設立。世界各地に本部・支部が設置されて行く。『人類愛善新聞』が創刊され、昭和9年には100万部を頒布する 昭和3年(1928)3月3日(旧2月12日) 「みろく大祭」(満56歳7ヶ月) 昭和7年(1932)8月13日 「大日本武道宣揚会」設立(総裁・出口王仁三郎、道主・植芝盛平) 昭和7年秋~8年 挙国更正運動、国防運動、国体闡明運動などを行ってゆく 昭和8年(1933)1月26日 教団名を再び「皇道大本」に改称 同 10月4日(旧8月15日) 『天祥地瑞』の著述開始(~翌年8月15日) 昭和8年~10年 全国32ヶ所に40基の歌碑を建立(歌は88首) 昭和9年(1934)7月22日 東京・九段の軍人会館で国民精神運動団体の「昭和神聖会」が発足。農村救済運動や大家族精神運動、皇道普及運動など救国活動を大々的に展開する。一年後には賛同者800万人にまで膨れ上がる。 昭和10年(1935)12月8日 第二次大本事件発生。投獄される(64歳)。約1000人もの信者が検挙され、大本の活動は一切禁止される。全国の大本の建物は粉々に破壊され、御神体や書籍類は強制焼却される。 昭和11年(1936)4月18日 綾部と亀岡の大本の聖地が強制的に売却される 昭和17年(1942)8月7日 6年8ヶ月ぶりに出獄して亀岡に帰る(71歳) 昭和19年(1944)12月29日 「耀盌」(ようわん)(楽焼茶碗)の製作を始める(その後21年3月までの1年数ヶ月で数千個を焼く) 昭和20年(1945)9月8日 大審院(現・最高裁)判決が出て、治安維持法は無罪、不敬罪は有罪(懲役5年)が確定 同 10月17日 大赦令により不敬罪の有罪が消滅する。 同 12月30日 鳥取県の吉岡温泉に逗留中の王仁三郎の談話が大阪朝日新聞に掲載(吉岡発言) 昭和21年(1946)2月7日 大本は「愛善苑」として新発足(苑主は王仁三郎) 同 8月26日 病床に伏す
昭和23年(1948)1月19日 午前7時55分、昇天(76歳5ヶ月) |
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