幻の霊界物語(1)旗志の森

 霊界物語には収録されずに原稿だけが残っているという“幻の霊界物語”が何篇かあるようです。

 次に紹介するものは『綾の機』(あやのはた)第75号(1988年11月)に掲載されていたものです。
 「旗志の森」という題名がついており、その内容は──ウラル教を国教とするカルマタ国の関守、アームス、ベルチンの二人が、国境の「ハタシの森」で生死観を論じるというものです。

 王仁三郎直筆の26枚からなるこの物語は、文末に「大正十一年十一月 日」という日付が入っています(年月だけで日は無記入)。「加藤明子 録」と書いてありますが、王仁三郎の直筆原稿のようです。

幻の霊界物語1 幻の霊界物語2

 これは王仁三郎が書いたものに間違いはありませんが、しかし霊界物語には結局収録されませんでした。
 したがって資料としての価値はあるが、神典としての価値はないと考えます。単なる話のネタとして読んで下さい。



 原文には句読点はほとんど付いておらず、一字空白で文が書き連ねてあります。
 ルビも原文にはほとんど付いていません。(ここでは青空文庫形式|《》でルビを挿入しました。)

 デカタン高原の中にて最も広きカルマタ国の国境ハタシの森にウラル教の関守二人藁小屋の中でバラモン教徒や三五教徒の浸入を防ぐべくウラル教の常暗彦の命を受けて朝夕酒に浸り乍ら後生大事と守って居る そして一人はアームスと謂ひ元はバラモン教の信者であつたのが常暗彦に見出されて大切な関守を命せられて居るのである 又一人はベルチンと謂つて三五教の信者であつたのが俄に変心してウラル教に入信した男である 何れも相当の学識を備へて居る人物で随分理屈の多い神様から見れは途中の鼻高さんて何うにも斯うにも仕方の無い代物である 両人がチビリチビリと酒を傾けながら 冬の夜の長さ凌ぎに宗教論や死生論に時を移すのであつた
アームス『抑々ウラル教の生死観は今この宣伝使の申す通りだ 耳を清めて能つく聞けエヘンオホン 死するといふことは要するに物理的生理的の法則に従ひ 栄枯盛衰の自然律に由つて草木か果実を結びて後朽枯するに均しく、その跡を第二の我たる新らしい生活力を有する子孫に譲りて此にその生活力を休止し その不用にして婆婆の場塞ぎたる老廃の肉体をは各 その元質に放還するまでゝある、死なるものを自観すれば大局より見て不用品を以て有用品に代え 新鮮なる勢力ある子孫に新たに生活力を開始せしむるに過ぎない、神の分霊分身として吾々は活動し得らるゝだけ活動したる以上は急度死を免かるることは出来ないのだ 又無用の老生は却つて社会の損害であつて死するといふことは絶対的合理である寧ろ当然の帰結である、それだから我々は青年重ねて来らす一日再晨なり難し飲める時に飲み喰へる時に喰ひ働らける時に働らき遊べる時に遊ぶのた、子孫に新生活力を伝へる丈けでは我々として大安心は出来ないのだ夫れだからウラル教の神様が現実界の人間は現 実界に十分の活動も為し十分の歓楽を味はい現肉体の自分として何時死んでも心残りの無いやうにせよと仰しやるのだ 何んと斯んな判然とした宗教はあるまいがな、飲めよ騒げよ一寸先は暗よ暗の跡には月が出る、月は月じやか運の月といふのだ、自身の生活力が継承されても矢張現肉体としては余り満足するだけの深い関係は無いのだからなあ、三五教のやうに死んでからでも猶ほ個性を存して天国へ遊び安楽に暮せるものだと説くのは何も知らぬ愚直な人間は夢中になつて頼りなき安心をして居るやうなことは哲学的智識の完全に発達した吾々には肯定する事は到底不可能だよ』
ベルチン『我々は決してそうは思はない死後急度個性的生活が続けられ 現世の因業によつて或は天国に安住し或は地獄に堕して無限の苦みを享受すべきものだと思ふよ 吾人の肉体は栄枯盛衰を免れないとしても その霊魂なるものは急度永遠無窮に生存し霊界にあつて至粋至醇なる身体を保留し現界の如く活動さるるものだと思ふ、そうで無くては人間も約らぬものだないか 僅に三百年の生命を保持しその後は個性の生活が出来ないといふのならば現代に於て道徳も仁義も律法も守るに及ばない一日も生命のある中に我本能の命ずる侭に好きすつ法なことを|行《や》つた方が余程利益だ そんな事なら極端に自然主義を発揮し飲めよ騒げよで その日を面白く楽しく暮した方がよ余程利巧だ 生活力を子孫に残した丈けでは人間も約らないからなあ、
アームス『さうだからウラルの教が真理といふのだ、ソコが三五教と相違してゐる点なのだ 何程つまらなくても真理なれば仕方が無いじやないか、宜しく活眼を開ひて宇宙の方面、即ち絶対の側に立つて死といふものゝ解釈を下す時は 死なるものは絶対の活力が肉体といふ|固体《こたい》の形式に由つて制限せられて居つたものが其拘束を脱却して絶対に還元したものだ 善悪美醜真偽我他彼此の総ての相対を超越した絶対の我 絶対の真 絶対の善 絶対の美に帰するものだ 是が所謂無上の天国 無限の極楽に行くものだと云ふに過ぎない、それだから哲学的に云ふ所の天国はあり極楽は在つても実在では無い 心の天国心の極楽はある、併し現実的の天国も極楽も地獄も無いのだ 更に本不生の意義から見れば生死とは畢竟位置の変換、形態の変更に過ぎないが その変更した形態や位置は到底現実ヘ帰らないのだから死といふものを約言すれは自己生活力の終末と謂つても宜いやうなものだ 実に人生ほど困つた果敢ないものは無い アゝモウ斯んな議論は|厭《いや》になつて来た 洒だ酒だ』
ベルチン『たとヘ位置や形体は変更しても吾人が現在に於ける動作と活力の効果に由つて宇宙万有の大原則により酬因感果の上に於ける第二の生活を個体を具へて開始する事が出来る不朽のものであらねば成らぬ、我といふ個性は堂しても永世常住不死の特権が完全に与へられてあるものと思ふよ』
アームス『哲理的考察よりせば生死は不二だ、我々も不死た永世の生命があるのだが併し理論と実地とは大変な相違のあるものだ、三五教は本守護神そのものが真の我であつて現肉体は我で無い霊魂の容器だと謂つて居るではないか、我々は肉体そのものを謂つて居るのでは無い、盤古神王の分霊たる我そのものが元の本家たる盤古神王に帰還合致するものだから死は則ち現実の肉体は滅亡し霊魂のみ元へ還へるといふのた 無我平等海に入るのだ 煙草を吸ふと一服の煙草は火に成り遂に灰になり煙になつてその形体を失つて了ふ、併しその煙草は永遠に位置形体を変更したのみて絶対の宇宙に現存して居る 決してその煙草を創成した元素そのものは滅尽するもので無い煙となり灰となり土となり水となつて宇宙に存在して居るのと同一筆法だから真に人生は果敢ないものだ お前は元来三五教で信仰を養つて来た男だから未だそんな未来の生活なんて虫の好い妄想が取れないのだよ、アハゝゝゝゝ』
漸く話す折しも、|四辺《しへん》何となく騒々しく人馬の物音近づき来たる、アームス、ベルチンは此の物音に打驚き藁小屋の押戸を開ひて前方を眺むれば幾百千とも数へ尽せぬ松火の光り堂々として此方に向つて進み来る二人はスハこそ一大事バラモン教の大足別の軍隊押寄せたり一時も早く常暗彦神に注進せんと一目散に東を差して駈出した、
      ○
口述者曰ふアームス、ベルチンの二人が議論を見るに何れも途中の鼻高の本領を発揮して堂しても帰着点が確固でない、是に能く似た宗教家哲学者は現在にも沢山あるやうです、半可通的人物の多いのは古今一徹である 一日も早く真理の太陽の光を暗黒社会に照らし度きものであります、
   大正十一年十一月 日
      加藤明子 録

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