皇族の血筋

 第二次大本事件は他には類例を見ない徹底した弾圧だった。当局が、まるで魔物にでも取り憑かれたかのように血眼になって、大本を地上から抹殺しようとしたのは何故なのか? その権力側の事情を理解するには「王仁三郎は皇族の血を引いていた」という事実を知る必要がある。王仁三郎は幕末から明治初期にかけて皇位継承順位が第一位だった有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王の子供なのだ。

 幕末の天皇である孝明天皇は、皇子が一人しかいなかった。睦仁(むつひと)親王、後の明治天皇である。即位のとき、まだ16歳の子供であった。
 そしてその明治天皇にも皇子が一人しかいなかった。明治12年(1879年)に生まれた嘉仁(よしひと)親王、後の大正天皇である。つまり孝明天皇が慶応2年に崩御してから大正天皇が生まれるまでの間「皇太子」は存在しなかったのである。
 その時期に皇位継承順位第一位だった皇族がいる。それが熾仁親王だ。
【左】孝明天皇 【中】有栖川宮熾仁親王 【左】王仁三郎
 熾仁(たるひと)親王の名は戦前は有名だったが、現代では知る人は少ないだろう。王政復古の大号令で明治新政府が誕生すると総裁(宰相格)に就任し、東征大総督として江戸城の無血開城を果たした。明治28年に亡くなるまでの間に、元老院議長、陸軍参謀総長、伊勢神宮祭主など、政府要職を歴任している。神社に行くと、神社名を書いた扁額(神額)によく熾仁親王揮毫のものがあるが、見た覚えのある人もいることだろう。

 熾仁親王は妃との間に子供がいなかった。だが結婚前に京都に滞在していたときに、船宿の女中との間にできた落胤(らくいん)がいた。
 女の名は上田世祢(よね)という。世祢は妊娠したことがわかるとすぐに郷里の亀岡に帰り、お婿さんを迎えた。そして生まれたのが上田喜三郎、後の出口王仁三郎である。
 皇位継承順位第一位の親王の御子である。それがもし当局に知られたら暗殺されてしまう可能性がある。だからこの事実は隠された。実際に生まれたのは明治3年7月12日だが、明治5年に戸籍制度ができると一年遅く「4年」生まれとして届け出た。熾仁親王は2年11月に東京に移住したので、4年生まれにしておけば熾仁親王の子である可能性がなくなるからだ。また結婚したのは「2年」として届け出た。こうして喜三郎を守り育てたのである。
【左】王仁三郎の母・上田世祢。熾仁親王の子を身籠もって王仁三郎を生んだ。【左から二番目】二本の短剣のうち左側が、熾仁親王が世祢に賜った短剣。刃渡り15.1cm。目釘の脇に直径1cmの十六葉の菊の御紋章が刻まれている。王仁三郎が信者に預けたものが、戦後発見され、毎日新聞が報道した(昭和53年12月10日付け京都版)。 【右から二番目】鶴殿男爵夫人の鶴殿親子(つるどの・ちかこ)。王仁三郎の顔を見て熾仁親王とそっくりなので驚いたという。 【一番右】熾仁親王が揮毫した伯耆大山の大神山神社の扁額。
 王仁三郎がなぜ日本のカリスマとなったのか、また、異常なまでに権力から弾圧されたのかは、熾仁親王の落胤であるという事実がわかると見えてくるだろう。
 その事実は大本内では知られた公然の秘密であったという。
 噂を聞いて皇室関係者も王仁三郎に会いに行った。昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の姪にあたる鶴殿親子(つるどの・ちかこ)は、王仁三郎の顔を見て熾仁親王に生き写しだったことに驚いて大本に入信し、宣伝使として宣教活動に活躍した。
 「宮中某重大事件」(裕仁皇太子の妃に内定していた良子(ながこ)に色盲の遺伝がある可能性があるとして元老の山県有朋が婚約辞退を迫った事件)は、王仁三郎が「色盲ではない」と断言した(霊眼で調べたのだろう)ことが鶴殿を通して宮中に伝えられたため解決したのだという。
 王仁三郎が人々に与える影響力は、熾仁親王の落胤だということでさらに大きなものになっていたのだ。
 王仁三郎が単なる新興宗教の教祖様でもなく、単なる社会改革の活動家でもなく、皇位継承順位第一位だった人物の落胤だったことが、権力者の脅威となったのだ。
 そして王仁三郎自身も、自分の出自を知っていたからこそ、それが自信と使命感につながり、日本のカリスマになることができたのだろう。当時は天皇絶対の時代である。畏れ多くも天皇陛下をさしおいて、カリスマになろうなんて思う人は皆無だったであろう。外国の、ナポレオンやヒットラー、スターリン、毛沢東といった国民的カリスマは近代日本には現われなかった。明治維新にしても小粒なミニカリスマたちによる団体芸であった。明治の元勲たちはデッチ上げられた虚構のカリスマであり、決して国民が支持していたわけではない。王仁三郎のように一般大衆から軍事、政治家、華族、皇族まで、実に国民の一割以上の支持を集めることできたのは、熾仁親王の落胤という事実なしには語れないのだ。

(孝明天皇、熾仁親王、王仁三郎の関係については出口恒・著『皇国の神術「切紙神示」』(仮題。2016年春に某社から発刊予定)に詳しいことが書いてある)
【なぜ熾仁親王が皇位継承順位第一位だったのか?】光格、仁孝、孝明の三天皇は皇子が一人しか成人していない(それ以外の皇子は夭折)。そしてそれ以前の天皇は、後継者以外の皇子は基本的に出家するので、公的には妻子がいないことになっている。つまり数百年間、天皇家に男系の親族は存在していないということになる。
 万一、天皇家に男子が生まれなかった場合、男子を養子に取るために四つの世襲親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)があった。そのうち有栖川宮家(約300年前の霊元天皇の血を引く)が幕末当時、天皇に一番血筋が近い宮家だった。
 当時の有栖川宮家には、幟仁(たかひと)、熾仁(たるひと)威仁(たけひと)の三人の男子皇族がいたが、年齢的に一番妥当なのが熾仁親王であった(孝明天皇が36歳で崩御した時、幟仁親王は55歳、熾仁親王は32歳、威仁親王はわずか5歳、皇太子・睦仁親王は15歳)。
 そのため幕末~明治初期は(皇太子を除けば)熾仁親王が皇位継承順位が事実上第一位ということになる。その落胤として生まれた王仁三郎は、天皇を擁立して権力を獲得した明治の元勲やその後身たちにとって極めて厄介な存在だったに違いない。弾圧の一因はそこにもあると言える。なお、有栖川宮家は弟の威仁親王にも男の子がいなかったため大正2年に断絶した。

【熾仁親王の落胤はもう一人いた】熾仁親王には、実はもう一人落胤がいる。名古屋の田中たまが生んだ「いく」という女性である。こちらは女の子のため当局はノーマークどころか、熾仁親王の妃も公認している存在だった。結婚して家口(やぐち)姓となる。王仁三郎は昭和20年4月、自分の孫娘の直美と、いくの息子の榮二を結婚させた。
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