大弾圧と「型の大本」

王仁三郎のパワーを封じ込める大弾圧

 昭和16年(1941年)12月8日は、日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の口火を切った日である。
 そのちょうど6年前の昭和10年12月8日。島根県松江の「真珠湾」ならぬ「宍道湖」(しんじこ)近くの大本の施設に、武装した警官隊が踏み込み、滞在していた王仁三郎を検挙した。容疑は不敬罪と治安維持法違反だ。近代日本宗教史上最大の弾圧と言われる第二次大本事件の勃発である。
 この日から当局は、綾部・亀岡の二つの聖地を始め、全国各地の大本の施設に踏み込み、信者を片っ端から連行した。その数は、取り調べを受けた者が3000人以上、検挙された者が987人、起訴された者は王仁三郎、澄子夫人を始め61人に上った。そして警察・検察による不法な拷問によって、大審院(現在の最高裁)判決が出るまでの間に16人もが死亡するという、異常なものであった。
【左】検挙され丸刈りにされた王仁三郎。六本指は「無罪」を示したと言われる。(昭和11年3月11日、京都・中立売警察署にて) 【右】未決監に収容される出口澄子。右手に持っているのは愛用の化粧箱。(昭和13年9月14日、京都・五条署にて)
 戦前の言論弾圧では最大最悪と言われる「横浜事件」(昭和18年)が検挙約60人、獄死4人というから、それと較べてもいかに大本事件が大規模なものだったが分かる。
 また共産党弾圧では昭和3年の「三・一五事件」が検挙1600人、翌4年の「四・一六事件」が検挙1000人と非常に大規模であるが、暴力革命を目指す集団に対する弾圧と、大本のような平和的な変革を目指す思想団体への弾圧とではわけが違う。昭和神聖会にしても少々過激な政治的主張は行ったが、今日の一部の宗教団体に見られるように政党を作って権力を獲得しようということではないし、もちろん武力蜂起など考えてもいない。あくまでも「国民精神運動」という位置付けであり、人間の精神面でのイノベーションを目ざしていた。このような精神団体に対する弾圧としては異常なほど大規模で徹底したものだった。

 大本の宗教活動は一切禁止され、全国の施設は当局の命令でことごとく破壊された。
 亀岡・天恩郷に王仁三郎が造らせた総石造りの「月宮殿」(げっきゅうでん)という神殿があった。全国から集めた1300個もの国魂石(くにたまいし)で土台を造り、さらに9000個もの様々な材質の石で建物を造った、独特なデザインの神殿である。当局はこの石でできた月宮殿を1500発以上のダイナマイトを使い、3週間もの日数を費やして粉々に爆破した。
 信者宅からも御神体や祭服、大本神諭や霊界物語のような教典・書籍・機関紙誌がすべて没収され焼却された。
 大本を地上から抹殺し、王仁三郎の神力に封印をしようとしたのだ。

昭和10年12月8日の二度目の弾圧は、報道管制が敷かれなかったため新聞各社はその日のうちに号外を出し、王仁三郎を邪教の教祖として徹底的に糾弾した。
【左上】綾部の神苑の五六七殿(みろくでん)。背後に見える山は御神体山の本宮山(ほんぐうやま)(昭和10年12月) (左下)第二次大本事件で当局の命令により破壊された五六七殿(昭和11年5月) 【右下】祖霊社の跡。神苑の建物は粉々に破壊された。 【右上2枚】墓石からは大本に関係する文字が当局の命令で削り取られた。右(出口ナオの四女・龍子の墓)は「出口直子第四女」の「直子」の文字が、左は「宣伝使」という文字が削られている。
亀岡・天恩郷の月宮殿。王仁三郎が設計した独創的なデザインで、9千個の石材と鉄筋コンクリートで造られ、屋根も石瓦という総石造りの神殿だった。 【右】第二次大本事件により破壊された月宮殿。鉄筋を酸素で切断し、ダイナマイト1500発を使って爆破した。壊れたコンクリと石の破片をさらに細かく砕くという念の入れようだった。
【左】破壊される前の天恩郷。【右上】建物が粉々に破壊され瓦礫と化した天恩郷。【右下】信者から押収したものは集められて焼却処分された。これらの行為は何ら法に基づかない、当局による違法行為であった。それこそ悪霊に取り憑かれているかのような狂気の沙汰であったが、そこまでして王仁三郎を押し籠めようとしたのは、それだけ王仁三郎が当局にとって危険な存在だったからである。しかしさすがに殺さなかったのは有栖川宮熾仁(たるひと)親王の落胤だったからか? 生かさず殺さずで闇に葬ってしまおうとしたのかも知れない。 戦後、大本の弁護団がこれらの違法行為に対して国家賠償請求をしようと相談したが、賠償金は税金から支払われるため、王仁三郎は「敗戦後の国民の膏血を絞るようなことをしてはならぬ」と賠償を求めることをしなかった。

大本弾圧は太平洋戦争の雛型?

 綾部と亀岡の二つの聖地の土地は、当局が不法に売却してしまい、所有権が大本から地元自治体に移ってしまった。昭和11年4月18日のことだ。それからちょうど6年後の昭和17年4月18日に、米軍機16機が本土を初空襲する。制空権が奪われてしまったのだ。以後全国に空襲の被害が出て日本列島は破壊され焼かれてしまう。
 このように第二次大本事件からちょうど6年後に、それに対応する出来事が起きているのだから何とも神秘的なことだ。
(対応表を参照)

 大本は「型(かた)の大本」と呼ばれる。大本、日本、世界の「三段の型」がある。
 世界の救済法として、宗教なら主に内面的な方向から、政治なら法律・経済など外面的な方向からアプローチを取る。しかし数万年というタイムスパンで起きる地球の大変革(王仁三郎に言わせれば、地球が始まって以来の大変革)に当たって神が用いた方法は、「雛型(ひながた)」によるものだった。初めに変革のための小さな雛型を作り、それを日本へ波及させ、さらに世界へと波及させて行く。その雛型神業を行う集団として誕生したのが「大本」であり、それを指揮するために現われたのが王仁三郎である。大本を立替え(破壊)立直す(再生)ことによって世界を「みろくの世」(地上天国)に変えて行こうというのが、王仁三郎の世界救済法なのである。
 であるから大本に起きた出来事には「良いこと」も「悪いこと」もすべて日本、世界へ起きる。それは善悪を超越した、人類の次元上昇のための通過儀礼だったとも言える。
 大本を狂ったように弾圧した権力者は、知らず知らずのうちに神様の御用(それは「悪」の御用かも知れないが)をさせられていたのである。

第二次大本事件と太平洋戦争の対応表

9年7月22日東京・九段の軍人会館で昭和神聖会の発会式を開く。この会の活動が当局を刺激して第二次大本事件へ傾斜して行く。
15年7月22日第二次近衛内閣が組閣。陸軍大臣に東条英機。9月に日独伊軍事同盟を締結、10月に大政翼賛会を設立するなど、太平洋戦争への道を傾斜して行く。
10年12月8日未明に第二次大本事件が勃発。当局は決死の「特高(警察)隊」を編成し水盃を交わし、島根県・松江の「宍道湖」の近くにある、大本島根別院に「滞泊中」の大本の「首領」王仁三郎を「奇襲攻撃」し、検挙する。
16年12月8日「未明」に太平洋戦争が勃発。日本海軍は決死の「特攻隊」は水盃を交わし、ハワイの「真珠湾」に「停泊中」のアメリカ太平洋艦隊の「主力」に「奇襲攻撃」する。
11年4月18日当局によって綾部・亀岡両聖地が不当に売却され、所有権が綾部町と亀岡町に移る。やがて両聖地を始め全国の大本関連施設はことごとく破壊されてしまう。
17年4月18日アメリカ陸軍のB-25爆撃機16機が東京・名古屋・神戸などを空爆。本土初空襲となる。やがて日本全土は米軍によってことごとく破壊焼尽されてしまう。
20年9月8日大審院(現在の最高裁)判決が出て、第二次大本事件が終わる。(この日、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が東京に進駐する)
26年9月8日サンフランシスコ講和条約が締結され、太平洋戦争が終わる。
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