昭和神聖会と皇道維新

国民の一割以上が共鳴した救国運動「昭和神聖会」

 第一次大本事件までの大本は、新興宗教にはありがちな予言や霊能を売り物にしたカルト色の強い、ある意味でふつうの宗教団体であり、王仁三郎はその教祖としての立場に甘んじていた。大本はもともと出口ナオを教祖と崇める集団であり、古い体質からなかなか抜け出せないでいた。
 しかし弾圧後の王仁三郎は今まで覆い被っていたベールを一切脱ぎ捨てた。大本を「人類愛善」精神のグローバル宗教へと脱皮させて行き、王仁三郎自身も「大本の王仁三郎ではなく、王仁三郎の大本じゃ」とのたまい、大本という枠を超えた立場で、世界的な活動に取り組んだのである。
 その全身全霊を籠めた精力的な活動が頂点に達したのが「昭和神聖会」である。

 昭和9年(1934年)7月22日(日)皇居のすぐそばにある軍人会館(戦後は九段会館と改称)で三千人余りもの参会者が集まり、昭和神聖会の発会式が開かれた。空席がなくなり、会館の外にも人々がたむろする状態だった。
 会の最高指導者を「統管」と呼び、王仁三郎が就任。副統管にはアジア主義者の内田良平(黒龍会主幹)と、出口宇知麿(王仁三郎の娘婿)が就任した。
 内務大臣、衆議院議長、貴族院議員、陸海軍将校らが祝辞を述べ、祝電は逓信大臣や愛国団体から寄せられ、1500通にも上った。

 王仁三郎はそれまで数ヶ月に亘り、東京を中心に各方面の有識者と懇談しながら、盟約を結び、この日の発会へと至ったのである。
 日本を取り巻く世界情勢は日増しに悪化していた。幕末以来、日本を虎視眈々と狙っていた欧米の列強は、今にも日本に上陸するかの勢いである。王仁三郎は日本を救うため、愛国諸団体と合同して、憂国の諸名士を結束させようとした。救国運動に乗り出したのである。
【左上】昭和神聖会発会式(昭和9年7月22日、軍人会館にて) 【左下】発会式の後、明治神宮に参拝する王仁三郎一行。 【右】昭和神聖会統管部の門前にて。天恩郷の透明殿に統管部が置かれた(昭和10年2月7日) 【中下】皇太子生誕奉祝で行進する神聖会員(昭和9年12月23日、東京にて)神聖会は主神を表わす○にヽの「⦿」(ス)をシンボルマークに使っていた。
 昭和神聖会は会則に「本会は神聖なる皇道に則り皇業を翼賛し神洲日本の使命達成を図るを以て目的とす」と書かれてあるように、「皇道」を精神的基盤に据えていた。

──皇道は宗教ではない。「すめらぎ(皇)の道」であり、すべてのものの根源にある「世界統一の道」である。
 その世界統一のやり方は、軍事力によるものでなく、政治や経済力によるものでもない。「言向け和す」(ことむけやわす)が日本古来から伝わる道である。人類愛善の精神を発揚させ、精神的・道義的に統一し、人類和楽の世界を建設することが皇国日本の使命なのである──。

 日本人の真の大和魂を呼び醒まそうとする王仁三郎のメッセージは全国に伝播した。この運動はたちまち拡がり、わずか一年間で800万人もの賛同会員を集めたのである。
 当時の内地の人口はおよそ7000万人(外地を含めれば9000万人)だから、日本人の一割以上が王仁三郎の魂からのメッセージに共鳴したことになる。

「皇道維新」で世界統一

 王仁三郎は明治31年、高熊山修業の直後から、皇道を探究し、実践普及に努めていたという。それが40年かかって大成したのだ。
 かつて大正時代には教団の正式名称を「皇道大本」に改め、そして「大正維新」論を唱えた。
 その主張の第一は、天皇を中心とする「世界大家族制度」を実施することである。やさしく言えば世界は一家人類みな兄弟の社会を実現するということだ。天皇云々はともかくとして、地球中の人たちが家族のような愛で繋がった世界をつくろうということには、仏教徒であれ、クリスチャンであれ、ムスリムであれ、誰も反対する者はいないだろう。それこそ神が目ざす地上天国と言える。
 次に、それを実施するために「租税制度の廃絶」を唱える。いったい、子供から金品を搾取する親がどこにいるだろうか。親が子に分け与えるのが天地自然の法則である。税金を取るのはやめて「土地本位制」に基づく「御稜威(みいづ)紙幣」を一千億円発行して使えば不況はたちまち解消するであろう。
 ──これは一見、経済に無知なド素人の考えのように思ってしまうが、要するに経済学者が言う「政府紙幣」のことである。それを「天皇陛下の御稜威」(それは日本の国の信用とも言える)によって発行しようと表現しているのである。現代なら一千兆円の政府紙幣を発行して国の借金を解消しようというような感覚だろう。

 そして「天産自給」を王仁三郎は唱えた。日本は外国から輸入しなくても、農産物も資源エネルギーも、みな自国の国土で産出できるようになっている。天産とは天賦の産物であり、必要なものはすべて天から与えられているのである。そして各国には、それぞれの天産物に特徴がある。他人のものを見て無い物ねだりをするのではなく、自分の住む国土に与えられている天賦の産物を活用して国を繁栄させていこうというのである。それが、神からその国(地域)に与えられた使命である。(世界は十二の天産自給ブロックに分かれるらしい)
 また各個人も、天賦の才能が神から与えられている。収入やステータスの高い「良い仕事」に就くのでなく、自分に与えられた天賦の才能を発揮させて地上天国の建設に奉仕して行くことが、この世に生まれてきた人間の使命である。
 そして日本に与えられた「皇道」を発揚して行くことが、王仁三郎が高熊山修業以来、終始一貫して「やり続けてきたこと」だとも言える。

 昭和に入ると「大正維新」は、「昭和維新」あるいは「皇道維新」と名を変えて世間に浸透した。
 そして王仁三郎は、農民から学者、軍人、華族、皇族まで幅広い社会階層から支持を得て、国民的カリスマへと成り上がって行くのである。

 しかしそれを警戒する勢力も存在した。
 そして昭和神聖会発足から一年五ヶ月ほど経った昭和10年12月に、王仁三郎を地上から抹殺する指令が下ったのである。
【左上】昭和青年会・昭和坤生会を査閲する王仁三郎。天皇の白馬を真似たとして、第二次大本事件で不敬罪の証拠にあげられた。(昭和8年8月、天恩郷にて) (左下)天恩郷に集まり隊列を組む昭和青年会員(昭和8年11月) 【右】統管服を査閲式に臨む王仁三郎(昭和9年11月)
【左】左から王仁三郎、アジア主義者の頭山満と内田良平(昭和6年7月) 【右】防空思想普及のデモを行う昭和青年会・昭和坤生会。(昭和9年2月、徳島県にて) 満洲事変後、国内では国防運動が盛んになった。昭和青年会・昭和坤生会は軍服のような制服を定め団体行動の訓練を行い、分列式を王仁三郎が査閲した。国防の中でも特に防空思想を重視し、昭和7年から10年まで全国各地で防空展を194ヶ所で開催、のべ60万人が入場した。

 王仁三郎は一方では「人類愛善」を唱え世界統一は軍事力ではなく道義的・精神的に統一するのだと唱えておきながら、一方では軍事教練まがいの活動をするのは全く矛盾している…と思う人もいるだろう。しかし王仁三郎は決して武力を否定しているのではない。国家が主権を発動して戦争するための武力に反対しているのであり、「警察的」な武力まで反対しているのではない。つまり世界政府を樹立して各国の軍隊を廃止し、テロ等には世界警察が対応することになる。第二次大戦後に科学者などが集まって「世界連邦」を提唱したが、王仁三郎はそれに魁けて活動していた。防空訓練などは、スイスなど欧州で盛んな「民間防衛」活動の一種であると言える。
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