新コーナー「調査研究レポート」細かい話はこちらに載せます(9/2)

二代教主・出口澄子の台湾巡教(大正12年)

 王仁三郎は昭和2年(1927)、6年、8年、10年の計4回、台湾に巡教に出掛けていますが、それより4年前の大正12年(1923)に、二代教主・出口澄子が台湾巡教に行っています。
 11月25日から12月6日まで12日間滞在していましたが、その日程は次の通りです。
11月20日 綾部を出発。
11月25日 基隆(きりゅう)に入る。台北へ行き、台湾神社参拝、台北市内の市場や龍山寺を見学。
11月26日 汽車で嘉義(かぎ)へ向かう。
11月27日 大日本精糖会社を見学。媽祖廟を見学。嘉義支部に泊まる。
11月28日 台南へ。
11月29日 高雄、屏東へ。台南に泊まる。
11月30日 台南分所の月次祭に参拝。
12月1日 火山廟、碧雲寺へ。嘉義に泊まる。
12月2日 嘉義に滞在。
12月3日 嘉義、二水(にすい)、外車埕(がいしゃてい)、魚池(ぎょち)を経て、日月潭(じつげつたん)へ。(日誌
12月4日 台北へ。
12月5日 台北に滞在。
12月6日 基隆から船に乗る。
12月10日 帰綾。



(注・上の地図の中の目印アイコンの位置は正確な位置ではありません。だいたいの目安です)

台湾みやげ

 機関誌『神の国』大正13年1月号p42~45に掲載された、「台湾みやげ」と題する二代教主の談話です。

台湾みやげ

   二代教主談

 二代様は今度はじめての台湾入りをされたので以前北海道へ行かれた時より船も大きく、中には座敷のあつた事や、浪の無かつたこと初て見る台湾は、今では日本の一部となつてゐるが、外国のやうに思つてゐられたので見聞される事皆が珍らしく通る人々を先づ一生懸命に見て居たとのお話であつた。
 基隆キールンに上陸直に台北へ行き方々へ詣らして貰つて、寺へも参りました。寺へは何となく昔から行きたいと思つてゐました、その中のお掛軸にどんな神様が御座らつしやるかと思つて居りました。方々見て廻りましたがお筆先に神もぶつも人民も勇んで暮す世となるぞよとありますが、わたしも一心にそのお願ひを致しました。寺をあちらではべうと言つて、屋根が船のやうで唐津からつ(焼物)で拵へてありました。棟など立派なもんで葺いてありまして非常な感じが致しましたが、今話されません。非常に感じました。
 街で珍らしかつたのは、大きな所に日本人のも土人のも料理するところがありまして、市場で沢山やつと人がゐて豚を大きく切つてカヤク詰にゴタゴタ炊いてゐました。臭うて臭うて鼻を摘んだが、所変れば品変るで、こんなもんぢやろかと思つて心配もしました。裸でねエ、衣服おべべもあんな服着ましてねエ、大きな豚喰べてゐるのは恐うありましたが、物騒なもんぢやつた。これも見様に違ないと思ひました。話も出来ぬ程ひどいものでした。どうしても日本の方へ贔屓がついて、日本の方が綺麗に見えました。
 珍らしいと言ふ珍らしい所案内して下さいまして翌日嘉義かぎと云ふ所へ、珍しい所へ連れて行つて貰ひまして、砂糖会社へ参りました。わしやかう思つて居た高木さんの居りなさつたから、そこかと思つたら、違つてゐました。併し台湾からは御用に人が見えてゐるから懐しうて、行く途中でも砂糖黍さたうきびの眼の届かぬ程に出来てゐて、百人や二百人隠れて居ても分らぬと思ひました。汽車を降りると、砂糖積むレールがあつて沢山やつと々々運んでゐました。そのうち見せてやらうと言つて四五人見えてでして非常に親切にして呉れますので、わしや自分に非常に神様の御神徳程此世に尊いものはないと思ひまして、お茶をよばれてゐると、そこの人が、体裁も義理の気分もなく、誠一つでありまして、ほんに上に立つお人は行届き心掛も違うな、現界なら立派な人のお世話になるのぢや銭金ぜにかねでなくて全くお蔭と思ひました。これも全く、高木さん上西さん岩田さんのあちらでうけが好かつた信用があつた人であつたからだと思ひ、神と人の心の持方に依つてこれだけの待遇もつかひもして頂くと言ふ口では話せぬ有難い感じがしてお礼を申して居りました。
 機械の事はお話出来ませんが、立派な黍が出来て、沢山の人が働いてゐて、生活は簡単で、これだつたら神さんの心で暮せるだらうと訊いたら、さうでないと言はれましたが、併し一生懸命に働いてゐる人の神心になつたら結構なミロクの世のやうにあるなと感じられました。
 兎に角余り結構で話出来ませんが、今大本を馬鹿にしてゐる気分が信者以外にはなくて、大変に嬉しうお蔭を頂きまして、霊と霊とがキツとくつつき合ふ様にありました。ほんまに懐しく誠と誠の様、お心掛がよかつたからに違ひないと考へました。
 北港ほくかうのマへ行きました。土人の家を見ようと思つて遊ばして貰ひに行きましたら、おかしげな蔵の小さいやうな堀立の土間に、貧乏人が住んで居まして、腰掛はたつた一つしかありません。気の毒な感じが致しました。一番に寝床ばかり探しました。それから神さんは媽祖まそさんをお祀りしてありましたが、竜体どす。看板見たいに入口に貼つてあり、赤い赤い団子を盛つて供へてありましたが、信心は強いもんです。
 夜は敷台うまみたいな長い腰掛に寝るので、別に道具奥座敷もありません。娘は綺麗に髪も結つて化粧して愛憎あいそう云うてましてなア、交換手でせうかいな。食べる物は芋や粥をゴチヤゴチヤ煮た脂こい物ばかりで便所はないので、寝台の下に便器しびんがあるので……、
 その隣が十万円の身代しんしよの家で、こちらは寝台ねだいが立派で、竜の彫物があつて、蒲団布いて幕が引いて、その上に各自めいめいの持物を置いてありまして、食事は土間どす。至極簡単なものでした。
 女はねエ、チツコイ足して出て来ましたが、10年程前先生が支那人の靴ぢやと言うて持つて来やはりました時、嘘つきなはれと言つたのでしたか、物は実地見て来なならぬと思ひました。
 北港ほくかうぶつの盛んな所で、大きな寺があつて、お祀りしてあるのは日本より下な竜体どす。丁度雨乞ひでしたが、土人は寄つてドンチヤンドンチヤン音してゐるのにこちらは「高天原……」ドンチヤンドンチヤンでわたしには悪霊が詰つてゐるのが感じられました。死んだ人の邪霊どす。寺や界隈に詰つて居りました。
 ぶつはんは喜んでゐやはると思ふてなア、買物もなし土人町を見て帰りました。
 台南では最初金比羅さんへ詣りましたが、今度は乙姫様のお供して行きましたが、四体のうち日本のお姿したのは三枚とあと一枚はあちらのお姿でした。立ちかけに不思議な事でやすんだら四十位の人が亀を捧げて立つてゐました。又出て来ましたが、その…夢で…、これは竜宮様のお迎へだと思ひました。ところがさきに五六七殿へ参りましたら、中村はんが出て来て亀を持つて来て乙姫様のお供して下さいとこんなに言やはりましたが妙なもんどすなア。
 乙姫様のお姿は何処へ納めようとも思ひませなんだが、嘉義かぎ、台北、台南へ納めさして頂くことになりました。
 北白川の宮様のお国替の場所へも詣らして貰ひました。
 火山廟くわざんべうへ詣らして頂きましたが、トロで山の裾迄行つて、籠で山の上へ、高い高い山で、一里位登つたり下つたりして登りました。随分剣呑な場所で、山の上に火が燃えてゐましたから、山が御神体どす。神々しい山でして、七八分目のところに寺があつて詣りましたら、山のてんつくに白い猿が出ました。それが高い高いところの岩の上にチヨコンと乗りましてね、まごまごしてゐましたら支那の土人が猿ぢや猿ぢやと言ふとりました。わしは神様のお迎へとお蔭を頂き御礼して、もうそれから帰らして貰ひました。
 帰りに竜体がこれ位(四五寸)の太さで長さが一間半もありましたらうか、それがトロの真中にドテンとしてゐました。そこへトロが威勢よう走つたら切れやせぬかと思ひましたら、切れてもおりませなんだ。どうもお見送りらしくお蔭を頂きました。トロがひつくりかへりもせず、ゴトとも言ひませんでした。
 そやちうと上に拝めたのは、猿でなくて金神様のお出迎へぢやつたと思ひました。
 日月潭じつげつたんへもそこから行きましたが、これは霊界物語にも出てゐるさうなので、わしや知らぬが、一里程トロで行きました。そら神々しい所があつて、これが台湾での高天原ぢやと思ひました。その村は山から、川の流れから、草木さうもくから違つて居りまして霊が非常な霊で人迄違ひました。人の身体のソツパイから違うて居りました。他の処の土人は二分や三分はぬけてゐましたがえエ。霊に力が無いんどすやろ。
 ほんとに此処は天国みたいで、日本でもやつとありましよまい。お三体の大神様に山がなつて居りまして、附々つきづきの眷属さんの山もあつて、そら神々しいもんでした。そこで拝礼して居たら、山の裾に小山があつてそこに五寸位の大ピカピカなものを拝めました。こちらの村に電気がありますよつてに、がとぼつて居るのかと思ひましたが、どうも神霊の火の様でした。清らかな湖もありました。その真中に御竜体さんが住んで居ました。
 生蕃せいばんは此麓に住んで居るので、神代に似てゐると思ひました。
 そこであはをつくきねを持つて謡つてくれましたが、何とも言へぬ鈴やかな声でくもりはありません。
 家に這入ると土間でムシロに寝るのださうで、粗末でありました。芋を蒸して居りましてよばれました。持つて来て呉れまして、夕飯の頃でしたからよばれたら、綾部のとちつとも変らん味でしたがエ。
 よく歌ふのですが、神様は相当の楽しみを与へてあるのだと感じました。つづみか太鼓の音がして十二人の女がきねを搗くのです。神さんが何も無けらない所でこんな風になさるのかと神様のお恵を感じました。
 海水を汲むのは竹筒に縄のついたもので、それで舟は円木舟まるきぶねだす。米も作つてゐました。
 信者に生蕃の言葉をよう判る人がありまして聞きましたが、此人の心になつたら神様の気勘に叶ふぢやろと思ひました。みたまが世に落ちて居ると言ふのですか変な事になつて居る。生蕃にも余り偉いで驚きました。神様から聞いて居る事で非常に感じました。
 生蕃のあたまにはうそがないから嘘と言ふことばもないので、首取ると言ふのは、生蕃は土人やのに後から支那から来よつて、生蕃を押し込んだので先祖の仇打に首取り始めたのださうです。しかし日本人は同じ系統だと言ふて親しんでゐたら飛行機などでおどしつけたり、無理に押へつけたりするんで反抗心を持ち、首を取るやうになつたぢやさうどす。
 物を蒔く時にはねエ、天地の神に村中祈念して、こんな時死人が仲間にあるちうと、天地のお叱りを受けた、土地を汚したお叱りだと言うて村の者は一同休んでおことはりをします。又あつたら又一同延ばして、一年中お米が取れんでも不足には思はんさうです。
 また男女のなれあひは禁じてあつて、道を汚したら村から追ひ出し、村に一人いちにん悪い者が出来たら村中寄つて祈念するし、その人間は尚更の事で、連帯責任としてあやまるのは、あれでこそ家族生活だと思ひました。日本の昔の武士のやうに恥を重んじる事が強いのです。
 此の生蕃の言葉の能う判る人は、今にこの方の御用する人じやと思ひました。森さんと言やはります。
 台湾は日本から言ふとひつじさるに当つて、大正五年に神島開けてミロク様鎮まつてからをしへが広がりましたが、今度は世界中に広まるんぢやな思ひました。
 兎に角結構なおかげを頂いて来ました。どうぞ生蕃にはづかしくない様にその気分は学んで頂きたう御座います。

二代教主渡台日誌

 機関誌『神の国』大正13年1月号の「二代教主渡台日誌」(高木鉄男・記)の中の、12月3日に日月潭を訪れたときの記録です。
 (文中「二八水」とは二水の別名)

十二月三日

 渡台とたいはじめより念頭を往来したる日月潭じつげつたん行きの日となる。午前六時四十五分信者多数に見送られ嘉義かぎを発し、二八水に下車し、未信者なるも因縁浅からざる増沢深治ふかぢ氏宅に休憩歓待を受け、水力電気会社の社線にてつひ外車埕ぐわいしやていに向ふ。外車埕より魚池ぎよち迄は台湾精糖会社の台車に便乗す。同社専務平山寅次郎氏の厚意により、同社鉄道主任駅長諸氏の出迎ひ見送りを受け、多大の便宜を与へられたるは感謝に堪へず。魚池よりは二代様こしに召され一里余を日月潭に向ふ。山容水態すいたいやうやく改まり、鬱葱うつそうたる亜熱帯の森林中を縫つつ進む。日月潭に着きしは午後三時、旅館涵碧楼かんへきろうに投ず。たんは海抜二千四百尺周囲四里十五丁日潭にちたん月潭げつたん相連あひつらなり、四周山を繞し、湖上一万尺の巒大大山水社大山らんだいたいさんすいしやたいざん聳へ立ち、秀麗の気みづから襟を正さしむ。涵碧楼上かんへきろうじやうより神言かみごとを奏上す、御礼中おれいちう湖上の山頭さんとうに霊光の輝くを二代教主霊視せらる。かしこしとも畏し言ふ処を知らず。霊界物語に依れば金勝要大神きんかつかねのおほかみの御分霊竜世姫命たつよひめのみこと此辺に鎮座ある由、けだし二代教主に依りておあがりに成りたるにはあらざるか、此かうの使命も此処に完成したるにはあらざるか、凡慮の知る所にあらず、アア惟神霊幸倍坐世。
 水電会社鈴木氏の厚意により同社の石油発動機ボートにて静かなる湖上を横ぎり、石印化蕃せきいんくわばん部落に上陸し蕃婦ばんふ杵歌きねうたを聞く。歌声かせい円明ゐんめい晴朗到底現代社会の言霊げんれいにあらず、くわうとして神世かみよかんらしむ、暫く老蕃ろうばんの小屋に憩ひ帰路に就く。此夜は霊界物語御筆先の拝読ありてのち早く寝に就く。此日一行は二代教主、高木鉄男てつを、佐伯史夫ふみを、馬場こと波方なみかた仲太郎なかたろう、橋本幸次郎かうじろう、同うの、松田徳三、坂内あさ、平川頼亮よりすけ、会沢よし、高橋ゑい、同令息、池本登一とういちの十四名なり。

このページは出口三平氏が編纂した『台湾現地研修会資料』(1990年、愛善苑・発行)に収録されている資料を元に作成しました。

(作成:2007/9/18)
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